搾取にピリオド03
集金マシーンと化す教会。
信じる者と書いて儲かると読みます。
今回は、安らぎと信仰の場所を提供するはずの教会が信者の財布をかすめとろうとしている実情について少し書いてみます。
もちろん、全ての教会が当てはまる訳ではありません。
しかし、信仰心を利用して弱い人達からお金を巻き上げる事に良心の咎めを全く感じない指導者が多いと感じます。
以下の点について考えてみましょう。
⑴牧師の給料
⑵毎週の献金
⑶十分の一献金(什一)
⑷本やCDの販売
⑸セミナー等の受講料
⑴牧師の給料
聖職者が給料を貰うのは正しい事なのでしょうか。
聖書を開いて見ると、初代教会で世界的なリーダーとして活躍していたパウロは天幕職人として働いていました。働きながら伝道したり、信者を教えたり、カウンセリングしたりしていました。
毎月固定の給与を貰っていたとの記述は聖書に見出せません。
世界的なリーダーとして毎日忙しくしていたパウロでさえ、自分の仕事を持っていたのです。
教会の牧師が給与を貰って牧会をする聖書的な根拠はありません。
⑵毎週の献金
日曜日の礼拝に参加すると、献金袋が自分の席に回ってきます。
「週の初めにお金を用意しておくように」とのパウロの言葉を根拠にしているのでしょうか、もちろん拒否することもできますが毎週信者は献金袋にお金を入れます。
さて、パウロがあの言葉を語った背景には困窮している遠方の仲間を助ける目的がありました。要するにカンパです。
あなたが今週献金したお金は、困窮している他の教会に全額寄付されるのでしょうか。それとも、牧師の給料や会堂の維持費など自教会の為に使われますか。
⑶十分の一献金
自分の収入の十分の一を教会に捧げるよう信者を励ます教会は多いと思います。
マラキ書を引き合いに出して、十分の一を支払うことから生じる「祝福」を強調したりしますね。
旧約聖書の一部のみを引用する姿勢は、御都合主義としか言えないです。
その聖句を引用するのであれば、他の旧約の記述も引用すべきです。
例えば、祭司は土地を相続しない。などの聖句を牧師や指導者に当てはめるのはどうでしょう。
⑷本やCDの販売
神の言葉を売り歩く者ではない。
タダで受けたのでタダで与えなさい。
聖書にはっきりと書かれている言葉ですね。
が、しかし。
自叙伝や学びのテキスト、自作の音楽などに値札が付いているのはおかしな事ですよね。
彼らは、上の聖句を読んだ事がないのでしょうか。
印刷等のコストがかかるというのであれば、データをインターネットにフリー素材として誰でも閲覧視聴可能にすれば良いですよね。
⑸セミナー等の受講料
信仰の仲間を強める為に、リバイバルに備える為になどの名目で各地で開かれる勉強会やセミナー。
素晴らしい事です。
無料であれば。
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無料であれば。
クリスチャンはお互いの事を兄弟姉妹と呼び合います。
つまり、ファミリーです。
自分の弟の宿題を手伝う時に金銭を要求する兄を見て父親はどう思うでしょうか。
風邪で寝込んだ妹の財布から「介護料」を抜き取る姉は、本当に妹の事を愛していると言えるのでしょうか。
どんなに素晴らしいセミナーだとしても、そこに金銭が発生するのであれば、、、。
神様の目から見て無価値な物になり下がらないでしょうか。
イエス様が地上に来られた時に、神殿で両替人の机をひっくり返して叫んだ言葉を思い出して下さい。
再びこの地に来られるキリストが、現在の教会の実情に憤りを感じないと言える理由はありません。
フリーダムはフリー。
自由は無料なのです。